催し案内
現在のページ:ホーム > 催し案内 > その他 > 仏教版画展 > 仏教版画展目録
仏教版画展目録
仏教版画展ー地獄・極楽を中心にーを開くにあたって
信多純一
今回神戸女子大学第三十四回文化祭に、仏教版画を取り上げましたが、この方面のことはおそらく皆さんあまりご存じないと思います。
しかし、一たびこの方面に眼を向けた時、驚くべき量の版画類が発行され、現在に至っていることを知るでしょう。それぐらい大きな影響力のある、民衆にとけこんだものでした。ほとんどの寺院には今もこれらを刷った版木が保存されていますが、お蔵入りをして、倉庫や屋根裏などに埃をかぶって寝ています。
それは今では人々の関心を引かず、またこれを刷る職人や、和紙などが不足しているからです。たまに寺院で売られていても、印刷のものに代わり、版画の味わいの失せたものになってしまっています。
仏画は本来、肉筆のものでした。しかし、早くから寺院または上層階級の仏間を荘厳するものとして、版画のかたちでも作成されてきましたが、まだそれらは少部数でした。
近世にはいって、爆発的に需要がたかまり、多種多様の仏版画が作られました。たとえば宇治の黄檗山万福寺では鉄眼一切経の版木にまじり、多くの中国高僧の描いた、また讃のある仏版画の版木が残り、刷師によって今も刷られている現場を見る事が出来ます。
従来忘れられてきたこれらの仏版画、それは庶民の壁間にも掛かり生活の匂いのしみこんだ、粗末なものではありますが人々の信仰のこころを真摯にうつすものであり、貴重な品なのです。
今回その中から比較的なじみ深い、地獄・極楽にテーマをしぼり優品、稀本にしぼって展示いたします。
この展示・目録作成に際しては、團夕紀子(大阪大学)、川端咲子、本田梨恵、山崎敦子各氏のご協力を得、図書館の協賛をも得ました、記して感謝の意を表します。
目次
人間界
1九想詩諺解(九相図) | 2仏説大報父母恩重経 | 3天保版五趣生死輪 |
4嘉永版五趣生死輪 | 5明治版五趣生死輪 | 6チベット版画六趣生死輪 |
7観心十法界図・二河白道 | 8山分(二河白道絵鈔) | 9煩悩河之解図 |
10寛文板生要集 | 11天和板往生要集 | 12元禄板往生要集 |
13天保板往生要集 | 14嘉永板往生要集 | 15融通念仏縁起 |
16融通念仏縁起絵巻 | - | - |
地獄
17八大地獄図 | 18地獄帖 | 19地獄実有説 |
20一休和尚佛鬼軍 | 21仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 | 22仏説十王経 |
23秦広王図(粉本) | 24十王図(粉本) | 25十王経絵巻(六道変相八大地獄図) |
26十王讃歎修善鈔 | 27十王讃歎修善図絵 | - |
極楽
28阿弥陀三尊来迎図 | 29阿弥陀聖衆来迎図 | 30二十五菩薩来迎図 |
31二十五菩薩功徳集 | 32来迎寺乱版 | 33初期小版釈迦涅槃図 |
34初期小版釈迦涅槃図 | 35初期小版釈迦涅槃図 | 36涅槃図筆彩図 |
37涅槃像随文略讃 | 38仏説般涅槃略説教戒経 | 39日蓮涅槃図 |
40法然涅槃図 | 41芭蕉涅槃図 | 42狂歌二翁集(鯨涅槃図) |
43役者涅槃図(四代目中村歌右衛門) | 44役者涅槃図(八代目市川団十郎) | 45役者涅槃図(初世嵐璃寛) |
46迎接曼陀羅 | 47当麻曼陀羅 | 48当麻曼陀羅 |
49当麻曼陀羅科節 | 50当麻曼陀羅絵鈔 | 51金光明曼陀羅 |
52法華絵曼陀羅 | 53兜率天曼陀羅(弥勒浄土変相) | 54両界曼陀羅 |
55印仏(阿弥陀蔵) | 56地蔵菩薩印仏印形 | 57印仏 |
58毘沙門天版木 | 59明王像版木 | 60弁財天版木 |
61諏訪神版木 | - | - |
人間界
(見出し省略)
1 九想詩諺解(九相図)
大本一冊 元禄七年 永田調兵衛刊 山雲子(坂内直頼)著。
死体が朽ちていく様を九段階に分けて想像し、人間の不浄性を観じて煩悩を断つ観法を九想観というが、これを具体的に絵にしたものが九想図。九想詩といい詩や歌で詠まれることもあり、中国では蘇東坡、日本では空海の漢詩が有名。本書も漢詩の注釈書である。九想の一は「新死想」、二は「膨張想」、三は「血塗想(けっとそう)」、四は「蓬乱想(ほうらんそう)」、五は「*食想(たんじきそう)」、六は「青*想(せいおそう)」、七は「白骨連想」、八は「骨散想」、九は「古墳想」。
2 仏説大報父母恩重経
折本一帖 中国本の復刻版
中国で製作された偽経。父母の恩の広大無辺を説き、その報恩の法を示す。掲出図は、懐胎から産の苦しみを経て生まれた子の保育・成長を見続け、成人してまで子を心配する母心を描いたもの。
五趣生死輪
『根本一切有部毘奈耶雑事』巻第十七に寺院壁画として描くよう説かれているものの一つ。図様は『根本説一切有部毘奈耶』巻第三十四により、衆生が五趣(五道)に輪廻転生する様を表す。無常大鬼の抱く輪形の轂(こく)に仏像と鴿(はと)・蛇・猪(…癡(ち))を、轂から外周に向かって五輻(ふく)(五線)を引き、その出来た空間に五趣(地獄・畜生・餓鬼・人・天)を配し、五輻の延長線上には生死の釣瓶を配す。さらに輪形の周囲には十二因縁等を描く。広くアジア諸国に伝播している仏画の一つ。日本では潮音の天保三年版が最古。
3 天保版 五趣生死輪
一幅 彩色墨摺り 手彩色 東都駒込沙門潮音識 天保三年版
江戸駒込西教寺八世の潮音は、五趣生死輪を描かせて印刻するとともに、その解説書として『五趣生死輪縁由』なる小冊子を寺から開版した。以後明治期にかけて、潮音印刻本に倣い「生死輪」は他の者によっても制作・開版された。西教寺でも、明治期に小ぶりの「生死輪」を活字本『五趣生死輪縁由』とセットで作っている。潮音本を写した肉筆画もいくつか残っており、潮音本の開版以降、本図が盛行をみたことが知られる。
4 嘉永版 五趣生死輪
一幅 紙本墨摺り 仏御所絵所姉崎織江蔵版 嘉永三年版
5 明治版 五趣生死輪
一幅 紙本墨摺り 手彩色 永田長左衛門印刻 明治二十四年版
近年紹介された版。同明治二十四年、同じ版元(永田文昌堂)から、本図の解説書とみなされる、「生死輪」小図を挟み込んだ小冊子『五趣生死輪弁義』が刊行されている。
6 チベット版画 六趣生死輪
一幅 紙本墨刷り 手彩色 チベット版画
五趣に修羅を加えて六趣(六道)とする。チベット・ネパールでは、五趣(六趣)生死輪図は現在も制作されている。
二河白道
「二河白道」とは、唐代における浄土教の大成者、善導の著書『観無量寿経疏』に書かれた「二河譬」を図絵化したものである。我が国では法然の『選択本願念仏集』、親鸞の『教行信証』などで引用され広く知られるものとなった。鎌倉時代には絵画化が始まり「二河白道図」として、絵解きなどによって民衆にも普及した。「二河譬」とは、ある人が志を立てて西へ西へと進んでいくと目の前に大きな二つの河が現れた。一つは北の方角に水の河、もう一つは南に火の河が横たわっている。中間には四五寸ほどの細い白い道が一筋に対岸(極楽)へ伸びている。激しい波、燃え上がる炎が道を覆い隠しており、到底渡りきることが出来ない。引き返そうにも背後からは群賊悪獣が襲ってくる。その人は釈迦の発遣、弥陀の召喚により、一心に正念し無事に白道を渡りきり、善友(阿弥陀)との面会を喜ぶことが出来た。というものである。ここでは水の河は貪愛、火の河は瞋憎を意味し、衆生の中にあって清浄な願往生心を生じることを水火二河の中間を走る白道にたとえたものである。
7 観心十法界図・二河白道
一軸 紙本墨刷り 江戸後期
地獄、餓鬼、畜生、人間、修羅、天界の六道に仏、菩薩、縁覚、声聞の四法界を合わせた十界図。中世末期〜江戸にかけて活躍した熊野比丘尼が絵解きで使用したと推定される。平安、鎌倉に盛んに描かれた地獄・極楽図、六道絵の系譜をふむ絵である。
8 山分〔二河白道絵鈔〕
大本一冊 寛文六年刊 月感著
浄土真宗僧侶・月感(1600~1674)の著書。八項に分けて真宗の法義を説いたもの。第七項には二河白道図を挿入し、二河譬を説明している。ここでは、白道を渡ろうとする衆生に迫り来る群賊悪獣(悪見人)を「きりしたんのたぐひ又は醫師、陰陽師、儒者、易者、女巫(みこ) 、覡(かんなぎ)、根来(ねごろ)、羽来(はくろ)、の行人のたぐひなり」としており、当時の宗教思想、社会的問題を見ることが出来る。
9 煩悩河之解図
一幅 紙本墨刷り 慈雲讃 法橋東洲画 二河白道図の一種。
二河を煩悩に譬え、中央に凡夫が一心正念している姿が描かれている。上段、慈雲の讃には、凡夫に対して煩悩を捨てて往生に赴くべき教えが説かれている。
往生要集
天台僧恵心僧都源信によって寛和元年(九八五)に完成された『往生要集』は、大文第一から大文第十の十章からなるがその中心部は大文第四「正修念仏」であり、極楽往生の方法としての観想念仏を説くことにあった。しかし本来は導入部にすぎない大文第一「厭離(おんり)穢土(えど)」の地獄を含む六道の描写と大文第二「欣求(ごんぐ)浄土」の第一に説かれる「聖衆来迎楽」とが一般に理解が容易であったため特に取り上げられ、一般民衆の地獄・極楽観に決定的影響を与え、六道絵・地獄図・来迎図等の大いに盛行するもととなった、近世期の版本、仮名書き絵入りの『往生要集』は、大文第一「厭離穢土」と大文第二「欣求浄土」のみで構成され、地獄・極楽の様相を一般にわかりやすく説明する性質のものであり、源信の著した『往生要集』とはその性質を異にしているといえる。
10 寛文板 往生要集
大本六冊 寛文十一年刊
六冊本は巻一・巻二の副題を「地獄物語」、巻五・巻六の副題を「極楽物語」とする。現存最古の絵入り本『往生要集』は寛文三年版であるが、本書はそれを模刻したと思われる類版本。挿絵は寛文三年版より簡略化されている。なお以下の諸本の本文は全て同系。
11 天和板 往生要集
大本三冊(六冊を二冊ずつ合綴) 松會版
本書は従来知られていない版で、最近紹介されたもの。六冊すべて揃っている松会版としては唯一の現存本。挿絵は寛文三年版を参照して描かれたと思われ、寛文十一年版とも類似する。
12 元禄板 往生要集
半紙本変形五冊(巻一闕) 元禄二年 菱屋治兵衛刊
寛文版と同系であるが、挿絵はさらに簡略化されている。
13 天保板 往生要集
大本三冊 天保十四年 丁字屋庄兵衛他四軒刊 八田華堂金彦挿絵
寛政二年版(元禄二年版の改刻本)から三巻三冊形態となり、各巻の副題を「地獄物語」「六道物語」「極楽物語」とする。天保版は諸本のうち最も流布した版。挿絵は一新され、多くは滋賀聖衆来迎寺本六道絵(十五幅)を参照して描かれている。挿絵の絵師八田華堂金彦は滋賀近江の人という。
14 嘉永板 往生要集
半紙本三冊 丁字屋九郎右衛門刊 挿絵 八田華堂金彦
冒頭に源信の肖像や御詠歌をのせるなど、新しい試みが見られる。
*掲出の挿絵は「衆合地獄」(10・11・13・14)、「焦熱地獄」(12)、「人道」(10・11・12・13・14)、「聖衆来迎楽」(10・11・12・13・14)。天保十四年版の「人道」は、九想の様を描く、聖衆来迎寺本六道絵の「人道不浄相」を参照したと思われ、九想図に近いものとなっている。「人間界」の部屋には人道の図、「地獄」の部屋には衆合地獄の図(元禄板のみ焦熱地獄の図)、「極楽」の部屋には聖衆来迎楽の図を展示。
融通念仏縁起
融通念仏宗の宗祖良忍の伝記と、没後の奇蹟、念仏の功徳等を描いた絵巻。正和三年(一三一四)頃に成立し、以後多数の伝本が制作された。とりわけ本絵巻の伝播に尽力したのが良鎮で、数十本の絵巻を勧進し、さらにこの絵巻を普及させるため木版化を企てた。木版本は明徳二年(一三九一)に完成、日本版画史上の記念碑的存在となった。以後近世後期にかけて本絵巻の複数の版本が開版されている。さらに良鎮は明徳版本を底本とする肉筆の清凉寺本絵巻を勧進、詞書は後小松天皇や将軍足利義持を始め当代の高僧貴顕が執筆、絵も宮廷絵所預を中心に、当代一流の六人の絵師が執筆した。この清凉寺本を模刻したのが享和版である。
15 融通念仏縁起
半紙本二冊 元禄六癸酉仲春吉旦 書林 浅野久兵衛
融通念仏宗総本山大念仏寺から版刻刊行されたもの。上巻巻頭に同寺四十六世融観の序文を載せる。なお本書の版木は現在も大念仏寺に保存されている。
16 融通念仏縁起絵巻
二巻 享和版
享和元年(一八〇一)六月、江戸回向院において嵯峨清凉寺の本尊と清凉寺本融通念仏縁起絵巻(重文)等宝物の出開帳が行われた。その折、松平定信の命によって清凉寺本絵巻を模刻刊行せしめたもの。清涼寺本の巻子の大きさ等までことごとく模している。
*掲出の場面は、良忍が上品上生の往生を遂げ聖衆が来迎する場(人間界)、北白河の下僧の妻が地獄に落ちるが、念仏三千遍を受けていたため、閻魔庁から帰され蘇生する場、疫病が猛威を振るうが、武蔵国与野郷の名主の一族は別時念仏を行ったため、疫神の乱入をふせぎ感染を免れるという場(地獄)。
地獄
地獄図
地獄を説く諸経典の記述は一致していなかったが、源信は『往生要集』大文第一「厭離穢土」の中で、諸経典を引用しつつ八大地獄と各地獄に十六ずつ付属する小地獄(別所地獄)に整理して、体系的に詳述した。以降の地獄図の大半は『往生要集』によっており、地獄図の一定の形が定着したといえるまた地獄思想をめぐっては、『往生要集』と十王信仰とが融合されており、『往生要集』による地獄絵や六道絵に、十王像や閻魔像が描かれている例も少なくない。
17 八大地獄図
一幅 手彩色 近世後期(天保十四年以降)
天保十四年版『往生要集』の八大地獄の挿絵を貼り合わせ、それぞれに彩色して一幅に仕立てたもの。挿絵半丁分ずつを切り抜いて貼り合わせてあり、版木操作の跡等は認められないので、おそらくは版元ではなく天保版『往生要集』の持ち主の手で、現状のように仕立てられたものと思われる。
18 地獄帖
折本一帖 玉手棠洲画
当世の人間を地獄界に取り合わせ戯画化したもの。
19 地獄実有説
大本一冊 隆円著 享和三年 澤田吉左衛門他二軒刊
地獄はないという説を排し、邪見とさとす書。巻頭に土佐光信の閻魔像を掲げ、雪堂・楠亭・月亭・忍性等が著名人の詩歌をもとに軽妙な画風の挿絵を描く。
20 一休和尚佛鬼軍
中本一冊 天保五年再板 小川多左衛門他二軒刊
初版は文政六年刊。絵入り仮名法語。一休宗純作と伝承される京都十念寺蔵仏鬼軍絵巻に依って版刻されたもの。浄土の諸仏諸菩薩が地獄の悪鬼を征伐し、地獄を浄土となす内容。
十王図
十王とは、人々の没後中陰の間に、冥界にあって亡者の罪業を裁判する十人の王を言う。十王信仰は中国で唐末五代頃、民間信仰を取り入れて成立。日本でも鎌倉期に入ると『地蔵十王経』の受容と流布によって十王信仰が定着、中国宋元画の十幅仕立ての十王図が数多く請来され、これらを手本に日本でも十王図が描かれるようになった。十王信仰においては十王の裁きを軽減することが重視され、自身の没後のための逆修善や、故人のための追善を行うことが説かれたため、十王図は本来、逆修や追善のために描かれた。
21 仏説地蔵菩薩発心因縁十王経
大本一冊 近世初期刊 中国本の復刻
略して『地蔵十王経』『十王経』等。『預修十王生七経』(偽経)に基づいて製作された偽経で、本書はその絵入り本。十王それぞれに対応する本地仏を設定し、地蔵と閻魔は同体で、諸仏菩薩中冥界では地蔵が最上位にあると説く。日本では鎌倉期から流布し、多くの十王図は本経の所説に基づいて制作されたため、十王の上部に本地仏を描くものが多い。
22 仏説十王経
大本一冊 貞享五年 江戸 中川五郎兵衛刊
右『地蔵十王経』に覚林が頭注を加えたもの。
23 秦広王図(粉本)
一幅 紙本墨画 享和年間写。
秦広王は十王の第一で、初七日の審判を司る。本図は仏光寺所蔵の十王図を写した粉本。裏書に「二条新地仏光寺什物十王之図十一幅ノ内也」とある。次の十王図粉本と同じ絵師の筆になる。底本となった仏光寺の十王図については未詳。
24 十王図(粉本)
十幅 紙本墨画 享和年刊写
本図は土佐光信筆浄福寺本十王図(十幅・重文)を写した粉本である。本図に描かれる十王と本地仏は以下の通り。
第一(初七日)秦広王―不動明王
第二(二七日)初江王―釈迦如来
第三(三七日)宋帝王―文殊菩薩
第四(四七日)五官王―普賢菩薩
第五(五七日)閻魔王―地蔵菩薩
第六(六七日)変成王―弥勒菩薩
第七(七七日)太山王―薬師如来
第八(百ヶ日)平等王―観世音菩薩
第九(一周忌)都市王―勢至菩薩
第十(三回忌)五道転輪王―阿弥陀如来
土佐光信筆淨福寺本十王図は、裏書や『実隆公記』の記述等によって、延徳元年(一四八九)後土御門天皇の逆修のために描かれたもので、後奈良天皇によって淨福寺に下賜されたものであることが判明している。なお淨福寺本とほぼ一致する図様を持つものに、二尊院本十王図(重文)がある。淨福寺本(二尊院本および本粉本)の図様の特色の第一は、『地蔵十王経』では二七日に説かれている「奈河津(三途河)」と「奪衣婆」を、初七日の秦広王図に描いていることである。これは、日本では古くから「三途河と奪衣婆」が冥途に入る以前の情景として理解されていたため、初七日の場面にこれらを描くことにより、日本の伝承を取り入れようと努めたものと考えられている。また淨福寺本には、全体に和風の景物が描き込まれており、宋元画の模倣に始まる十王図を和様化する工夫とみる指摘もある。もう一つの大きな特色は、第七の太山王が甲冑姿に描かれていることで、他の十王図と大きく異なる。
25 十王経絵巻〔六道変相八大地獄図〕
一巻 紙本着色 嘉吉本の模本 文政九年写
『十王讃歎経』に絵が加わったもの。本図の底本となった嘉吉本は現存せず。掲出図は、八大地獄の中でも最下底にあるとされる阿鼻地獄(無間地獄)。『往生要集』に記されるところの、全身に六十四の眼をもち頭上に八つの牛頭を頂く獄卒や大蛇、口から舌を引き出され、百の鉄釘でこれを張りのばされる罪人などが描かれている。
26 十王讃歎修善鈔
大本二冊 享保元年 栗山宇兵衛他一軒刊 隆堯著
日蓮著に仮託される『十王讚歎鈔』に依って、著者自らの教義にそった教説等を付加したもの。『地蔵十王経』に依り冥界十王のことを記す。なお『十王讚歎鈔』は十王信仰の普及上大きな影響力をもった書である。
27 十王讃歎修善図絵
半紙本一冊 嘉永年間 京都書肆合梓 上巻のみ。
隆堯の『十王讚嘆修善鈔』に図絵を加えたもの。
極楽
来迎図
『観無量寿経』に説かれる九品往生観を典拠とし、はじめ観経変相の周辺に九品来迎図 が描かれていたが、浄土信仰の高まりの中で単独の各種来迎図が描かれるようになった。臨終に際して阿弥陀三尊や諸聖衆が来迎し、西方極楽浄土に迎えとるという信仰に基づき、浄土教においては日常の礼拝対象として、また臨終時の極楽往生を遂げるための具として用いられた。鎌倉期には既に木版化されていたという。
28 阿弥陀三尊来迎図
一幅 紙本墨摺り 手彩色 江戸中期
29 阿弥陀聖衆来迎図
一幅 紙本墨摺り
聖衆の背後の版面を残して墨摺りとすることにより、虚空を浮遊来迎する様を表現する効果を生んでいる。墨摺りの効果を有効にいかした版画といえる。
30 二十五菩薩来迎図
一幅 紙本墨摺り
「来迎引接恵心御筆御影」とある。来迎図の上部にいわゆる帰り来迎図を伴う。往生者を迎えとり浄土へ帰還する聖衆の図で、観音の持つ蓮華はその中に往生者を迎えとったことを示すものである。
31 二十五菩薩功徳集
中本一冊 寛文九年刊
現存本が他に一冊しか確認されていない稀本。掲出の図は弥勒菩薩。
32 来迎寺乱版
一幅 紙本墨摺り 平安末 来迎寺蔵版
本図の版木は、恵心僧都源信の発願によって開版されたとの伝承をもつ。上部には『阿弥陀経』を、下部には二十五菩薩来迎図を描くという。版面の磨耗がはげしいが源信開版の伝承から尊ばれてきたもの。
涅槃図
『大般涅槃経』『摩訶摩耶経』等に基づいて、仏伝の一場面である釈迦入滅の場を描く。陰暦二月十五日に仏教のいずれの宗派でも行われる涅槃会の本尊として用いられ、各寺院の必需品であったため需要は極めて多く、早くから木版印刷された。現存最古の木版涅槃図は応永九年(一四〇二)京都嵯峨臨川寺で開版された浄光寺蔵本。檀家制度のもとにあった近世庶民にとっては、涅槃会は年中行事であり、涅槃図も身近なものであった。涅槃とは不生不滅の悟りの境地をいう。
33 初期小版 釈迦涅槃図
一幅 紙本墨摺り 手彩色 近世初期
小巻法華経の見返し絵として付されていたもの。小画面の中に、沙羅双樹の下の釈迦を 囲んで悲泣する諸菩薩・仏弟子や鳥獣、飛来する生母摩耶夫人、枕もとの釈迦の錫杖と鉢の包み等の、涅槃図に必須のモチーフを描き込む。次の二点とも細部まで図様が酷似する。本図は彩色が特に丹念に行われている。
34 初期小版 釈迦涅槃図
法華経一巻 近世初期
35 初期小版 釈迦涅槃図
法華経一巻 近世初期
36 涅槃図筆彩図
一幅 紙本墨摺り 手彩色 「正保三年小嶋弥左衛門開之」と同版
摩耶夫人は描かれないが、釈迦を囲んで数多くの仏弟子や信者、鳥獣を描く。仏教版画に多色摺りが少なく、本図のように入念な筆彩色の施されたものが多いのは、版画とはいえ礼拝の対象として尊ばれるものであったためと思われる。
37 涅槃像随文略讃
大本三冊 宝暦七年 永田調兵衛刊
38 仏説般涅槃略説教戒経
折本一帖 勢州泉禅寺蔵版
釈迦入滅直前の一代説法の要旨を説く経典。掲出の挿画は涅槃図。
変わり涅槃図
本来涅槃図は、釈迦の臨終の情景を描いた図であった。それが流布するに従い次第に変容を見せるようになる。その一つが、我が国の高僧名僧達の臨終の様を釈迦の涅槃図に似せて描いた「高僧涅槃図」ともいうべき一群である。また近世期にはいると、様々な「見立」による涅槃図、「見立涅槃図」が描かれることとなる英一蝶の「業平涅槃図」、伊藤若冲の「野菜涅槃図」などは有名である。江戸時代、人気の高い役者の死後にその死を悼み、似顔絵・没年月日・辞世や追悼の歌句を記した「死絵」と呼ばれる浮世絵版画が売り出された。そこには様々な趣向が凝らされていたのであるが、その趣向の一つとして涅槃図を模したものを見ることができる。
39 日蓮涅槃図
一幅 近世後期
日蓮宗の祖師日蓮の涅槃図はきわめて多く、その図柄も異同が多い。日蓮入滅の様は早くより絵画化され、一枚摺や草子の挿絵等に描写されている。39は一枚刷りの版画であるが、日蓮を多彩な人々が取り囲みその一々に人名が宛てられている。同形式の日蓮涅槃図が北斎画の『日蓮上人一代図会』(安政五年刊)にある。これは身延山久遠寺身延文庫蔵の版画の系統に属する図と考えられ、39も又この系統の別版である。
40 法然涅槃図
一幅 近世後期(寛政頃か)
上部に一枚起請文を刻し、廊下に三面を囲まれた座敷に、合掌して横臥する法然が描かれる。京松原西寺町西照寺第十四世転蓮社輪誉上人顔阿和悦昌柳和尚の印施。顔阿は安永八年入寺、寛政七年隠居、文化十年十二月遷化の僧であるので、寛政期一七九〇年頃の図と見てよいであろう。
41 芭蕉涅槃図
一幅 近世後期
戦災でなくなってしまったが、かつて角田河畔木母寺梅若堂の右手にあった芭蕉翁涅槃碑の拓本を版に起こしたもの。二代目沢村田之助が愛蔵していた鍬形 斎筆の図を文化十四年一月二十八日田之助没後に追善のために碑に刻んだのが木母寺の碑であるという。中央に横臥する芭蕉を取り囲む蕉門の人々にはそれぞれ俳名が一字刻されていて誰が描かれているのかを知ることができる。下方の動物図は、かつて芭蕉が句に詠み込んだ動物が芭蕉の死を聞き、はせ参じたという趣向になっている。蓑を手にした小猿は『猿蓑』の世界を表し、枯枝の鴉・古池の蛙の姿も見える。
42 狂歌二翁集
半紙本一冊 (「鯨涅槃図」を掲出)
享和四年刊の『狂歌二翁集』に桃縁斎芥川貞佐の記とともに載る変わり涅槃図。酒好きを表して見立てた「大鯨飲図」である。
*鯨飲…鯨が海水を飲み込むように、酒を一度にたくさん飲むこと。
43 役者涅槃図(四代目中村歌右衛門)
一枚 嘉永五年
四代目中村歌右衛門の涅槃図仕立ての死絵。四代目中村歌右衛門(俳名翫雀)は嘉永五年二月十七日興行中に五十五歳で急死した。歌右衛門の涅槃図仕立ての死絵は他にもあるが、本版画の構図は背丈が高く堂々とした風采であったありし日の歌右衛門を偲ばせるものである。取り囲むのはその死を嘆く近親の者たちである。
44 役者涅槃図(八代目市川団十郎)
一枚 安政元年
八代目市川団十郎の涅槃図仕立ての死絵。安政元年三十二歳で自ら命を絶った八代目団十郎は、生前の人気とその死の特異さゆえに死絵の数が突出して多く百種以上作られたという。本版画では、八代目団十郎の死絵を手にして、贔屓役者の死を嘆き悲しむ娘たちの姿が描かれている。
45 役者涅槃図(初世嵐璃寛)
一枚 文政四年
有楽斎長秀画の戯作「璃寛像黄泉発足(りくはんざうめいどのたびだち)」。文政四年九月二十七日に五十四歳で没した初世嵐璃寛の死絵。烏帽子をかぶり武将の扮装で横臥する璃寛を作者奈河晴助や仲間たちが取り囲む。また、「りくはんのこうぶつわかれをおしむ(璃寛の好物別れを惜しむ)」と記され水がらくり・菊細工、はては三津五郎の幽霊まで様々なものが描かれている。長秀画と並べて「洛東じやまく才作」とあるのはおそらく長秀の戯名。
曼陀羅
日本での慣用として、浄土教画や仏教説話画の類で変相と呼ぶべきものを、曼荼羅と呼んでいるものが数種ある。当麻曼荼羅・兜率天曼荼羅・迎接曼荼羅などがその例。これらは密教の影響による流用であり、本来の密教でいう曼荼羅とは性格が異なる。
46 迎接曼陀羅
一幅 紙本墨摺り 元表装 近世初期 博多善導寺蔵版
来迎図の一種。浄土宗の開祖法然房源空の創案になり、門弟熊谷蓮生(直実)に与えられた、清涼寺蔵迎接曼荼羅(重文)を忠実に木版化したもの。迎接とは「来迎引接」の略。この迎接曼荼羅の図様は、法然の創案になるため重んじられたらしく、清涼寺本と同一図様の肉筆画が複数現存している。上段には極楽宮殿の庭に帰り着いた聖衆を描く帰り来迎図を配し、下段には阿弥陀聖衆の来迎を描く。虚空に浮かぶ無数の化仏と七宝宮殿は、『観無量寿経』の説く九品往生の最上位である上品上生の来迎であることを示している。飛天や屋形の庭前に端座合掌する小菩薩も、上品上生の奇瑞を祝福するものである。細部まで描き込まれたこれらのモチーフを、繊細な線描で緻密に印刻する本図は、仏教版画の優品である。なお博多善導寺とあるが、他地域の寺社の尊像版画に本図と同じ元表装を持つものがあり、仏教版画の版元が存在したことを示唆している。本図も都辺りの版元で制作されたものか。
当麻曼陀羅(観経変相)
『観無量寿経』の所説を絵画化した観経変相の一種。絢爛華麗な阿弥陀極楽浄土図の左辺に観経序分、右辺に十三観、下辺に九品往生図を描いた小図を配するのが特色。蓮の繊維で織られたものと伝承されてきた、当麻寺の有名な曼荼羅は奈良後期の作とされるが、鎌倉期に入ると浄土教の隆盛によりその存在が注目され以後さまざまな転写本や縮図・版本が制作された。鎌倉期に始まる、当麻曼荼羅の成立をめぐる中将姫伝説の流行も、本曼荼羅をさらに著名にした。曼荼羅講説のための注釈書や解説書も多く作られている。
47 当麻曼陀羅
一幅 紙本墨摺り 寛延二年
大幅であるため、複雑な構図の細部にいたるまで忠実に版画化しようとする意図が窺える。
48 当麻曼陀羅
一幅 紙本墨摺り 手彩色 安永二年
本格的な仏画様彩色がなされている。当麻曼荼羅や涅槃図のように需要の多い仏画では、木版画は量産のための下絵としての役割も果たした。なお本図では、九品往生図の中央の通常織付縁起が記される部分に、中将姫像が描かれているのが珍しい。
49 当麻曼陀羅科節
大本一冊 延宝四年刊 光覚昌堂の編集
曼荼羅の図を分解し、簡単な解説を付した図解書。延宝から元禄期は当麻曼荼羅信仰の高揚が著しい時期であり、曼荼羅の研究もこの頃から行われるようになった。
50 当麻曼陀羅絵鈔
半紙本五冊 宝永九年刊
51 金光明曼陀羅
一幅 紙本墨摺り 手彩色 近世中期 勢州山田善光寺蔵版
『金光明経』の所説に基づき、釈迦如来を中心にその上部には四方四仏を描き、護持の四天王や弁財天・吉祥天などを配する。肉筆画には類例を見出し難い珍しい図様。
52 法華絵曼陀羅
一幅 紙本墨摺り 近世中期 北野法華寺
法華寺は日蓮宗寺院。日蓮宗では、「跳題目」または「髭題目」と称される、「南無妙法蓮華経」の七字を中心に諸神仏の尊号を配する、日蓮創案の文字曼荼羅(大曼荼羅・十界曼荼羅とも)を宗定の本尊とするが、本図はその諸神仏を図像で表したもの。法華寺には開基大覚大僧正筆の絵曼荼羅が寺宝として伝わるというが、本図の七字の首題の下には大覚の署名と花押がみえ、寺宝の絵曼荼羅を版に起こしたものかと推されるが、未詳。
53 兜率天曼陀羅(弥勒浄土変相)
一幅 紙本墨摺り 手彩色 近世中期 天保五年の識語
弥勒は釈迦の入滅後、五十六億七千万年の後に兜率天からこの世に降臨し、衆生を救済するとされる未来仏。本図は『弥勒上生経』に依り、降臨の時節が到来するまで弥勒の住むという兜率天宮内院の様相を描いたもの。
54 両界曼陀羅(金剛界・胎蔵界)
二幅 紙本墨摺り 寛文以前(寛文元年の識語)
『大日経』『金剛頂経』に説かれる根本教義を、大日如来を中心とする諸尊の配置により図示するもので、密教において最も重視される。密教寺院には必須であり、修法道場の東に胎蔵界、西に金剛界を掛けるきまりである。両界曼荼羅の版本の遺品は多く、古くは鎌倉中期頃まで遡る。数多くの尊像を細い線で彫り、それをムラなく刷る技術が必要とされるため、小幅のものでは各尊を種子(梵字)で表す種子曼荼羅となりがちだが、本図では一体ずつ緻密に彫られている。各尊の尊容は素朴で慈味深く、好ましい作である。
印仏
仏像を版型に彫って朱や墨を塗り、印章のように紙上に捺印したもの。遺品は平安期に遡る。末法の世を迎える平安末期には善根の蓄積が迫られ、印仏は造仏の数を容易に増すことができるため、千体・万体と数多く押すことが流行した。鎌倉期になると、日々の日課として印仏する日課印仏、故人の追善、仏像の造像や修理のための勧進等の目的のため行われるようになった。勧進に応じた場合、喜捨結縁したしるしに印仏を押してもらった。いずれの場合も仏像の胎内に納入されていることが多い。財力の乏しい庶民にも可能な作善の方法としての役割は重要であった。
55 印仏
一軸 浄瑠璃寺胎内仏 平安期 阿弥陀像
浄瑠璃寺の阿弥陀像の胎内に納入されていたもの。完全体は一紙百体が刷られている。
56 地蔵菩薩印仏印形
一点 近世中期 欣浄寺什宝
57 印仏
一紙 江戸 地蔵菩薩像
仏版画版木
桜材。版木は各寺院において誂えられ、当該寺院にて保存されるが、地方の寺院などでは京都の版元に預け、必要部数を注文して摺り、簡易表装して送らせることもあった。
58 毘沙門天版木
一点 近世初期
59 明王像版木
一点 近世中期
60 弁財天版木
一点 文化七年七月(無動寺) 京、高倉五条上ル川幡文琉
61 諏訪神版木
一点 近世後期
なお、58・61は流出していた英国ロンドンからの里帰りの版木。