2025.02.07 史学科 村田
「学問探究の軌跡〔後〕─探究の道」
前回は、卒論では、所領錯綜地域の支配の特質を探るために河川支配の問題を取り上げることにしたところまでを記した。卒論の作成にあたっては、淀川沿岸の村に残された関係古文書を収集し、検討を加えた。しかし、実際にできあがった卒論は、単に摂津・河内両国における幕府の河川支配制度の表層を明らかにしただけに留まり、畿内非領国論や近世国家論のような大きな議論に高めることはできなかった。これは、もっぱら当時の私にはそれだけの力がなかったことによっている。ただし、近世畿内近国の支配の特質を探る方法として河川支配のあり方を検討したこと自体は正しい選択であったし、近世史の重要テーマであるにもかかわらず、それまでほとんど注目されていなかった河川支配の問題を取り上げたこと自体も、無意味なことではなかったと考えている。
大学卒業後、私は大学院に進学した。大学院では、近世における所領の別を超えた広域的な支配を研究テーマとした。幕府が広域的に課した人足役の検討を通して江戸幕府と領主との関係や幕府権力の特質を解明しようとする試みで、卒論の課題意識を継承・発展させたものであった。修士論文では摂津・河内両国における大河川堤防の修復システムである 国役普請 制度を取り上げた。国役普請とは、幕府が一国または数ヵ国に対し、所領の別なく人足役(国役普請人足役)を課し、その結果集められた大量の人足によって大規模普請を行うものである。集中化された強力な国家権力をもってはじめて可能となる普請形態であり、江戸幕府の権力的性格を如実に示すものといってよい。修論では、その側面はある程度描けたと思うが、結局のところ、これも摂津・河内両国の国役普請制度の実態解明に終わってしまった。
私が近世史学界に一定の方法論的な問題提起をしたという手応えを感じることができたのは、それから10年ほど経った頃のことである。修論後も、私は人足役などの役賦課の問題の解明に取り組んでいたが、あるとき人足役の請負人の存在に気づいたのである。すなわち、幕府は国役普請人足役を摂津・河内両国の村々に、領主の所領を単位に課していたのであるが、実際には村々から人足が出ることはなく、所領ごとに国役普請人足役を請け負った土木業者が人足を提供していたのである。村々は、国役普請終了後、人足役請負人に人足役の請負料を支払うというシステムであった。
この人足役請負人の発見をきっかけに、私は、近世支配を考える際には、支配の主体(幕府や領主)と支配の対象(村や町など)だけでなく、中間介在者の存在にも留意する必要があることを知った。そこから議論を発展させ、従来の近世支配研究は政策内容の分析(政策史的分析)に偏りがちであったとして、「支配の実現メカニズム」という、近世支配研究の新たな分析視角・方法を学界に提起した。実際、このような視角・方法により改めて近世支配を見直してみると、それまで近世史研究者が気づかなかった中間介在者がいやでも目に入るようになった。領主に出入りし、その支配の一部を請け負っていた用聞(用達)という商人もその一つである。用聞は国役普請人足役の請負人と重なることが多かったが、そこから私は、土木業者が国役普請人足役の請負を通して領主との関係を深め、支配の請負人である用聞になっていくコースを想定した。私は「支配の実現メカニズム」を主要な柱として自身の研究を体系化し、博士学位論文をまとめた。1993年(平成5)のことである。これは、加筆・修正の上、1995年(平成7)に『近世広域支配の研究』として大阪大学出版会から刊行された
自身の博士学位論文提出までの研究の歩みについて述べてきた。ありふれた一研究者の軌跡に過ぎず、とりたてて誇るべきものでもないが、学問探究の一つの事例として少しは参考になるところもあるのではないかと思い、あえて記した次第である。
村田先生ありがとうございました。神戸女子大学ご着任前後のご活躍については、本学のニュース記事「史学科 村田 路人教授が第18回「徳川賞」を受賞」をご覧ください。また、いよいよ来週に迫りました村田先生の最終講義についてはこちらをご参照ください。
これまでのかわら版はこちらから
公式SNSもご確認ください。