2025.01.24 史学科 村田
「学問探究の軌跡〔前〕─探究の道」
今年度の3月をもって本学を定年退職される日本近世史担当の村田 路人先生からご自身の探究生活をふりかえるエッセイをいただきました。村田先生は2020年4月に本学にご着任。日本近世史(概論)や古文書講読などの講義・演習を担当されました。史学演習の学外研修では須磨キャンパス周辺の歴史ウォークが定番となり、学生にフィールドワークの重要性を説いていらっしゃいました。また大学院日本史学専攻の専攻科長を務められ、後進の育成に格別のご尽力をいただいています。
私が大学(大阪大学)に入学したのは1973年(昭和48)のことである。もともと歴史、特に日本史が好きで、将来的には歴史学の知識を生かすことのできる職業につきたいと考えていたため、学部は文学部を選んだ。当時は、入学後最初の2年間は教養課程で一般教養科目を履修し、3年目から専門課程に上がることになっていた。3年生になるとき、専攻選択があったが、20ほどあった専攻のうち、私は迷うことなく国史学(当時の名称。現在は日本史学というのが普通)を選択した。
専門課程に上がると、学生はそれぞれの専攻の「研究室」に所属することになる。私が所属したのは国史研究室(現在の名称は日本史研究室)で、同研究室には日本史学を専攻する学部生(3年生、4年生)、大学院生、教員(教授、助教授、助手)が所属していた。国史研究室では、史跡・古文書の見学旅行や卒業論文・修士論文中間発表会などの公式行事があり、研究室構成員がまとまって行動する機会が何度かあった。また、学部生も院生も同じ部屋で研究や授業準備を行っていたため、日常的に学年の枠や学部生・大学院生の枠を超えた交流があった。
研究室の公的行事ではないが、ある先生が編纂委員を務めている市史編纂事業に伴う古文書調査といったものもあり、私はその種のものには可能な限り参加していた。3年生の夏休みに、先輩の卒論史料収集旅行に同行し、古文書の写真撮影の手伝いをしたこともある。そのような経験をする中で、自分に向いているのは、村の旧家に残された古文書(地方文書という)を調査し、それをもとに具体的な歴史を描くという研究スタイルであることを自覚した。こうして、卒論は近世史で地方文書を用いて書くことに決めた。ちなみに、近世とは、16世紀末の豊臣政権期あたりから明治4年(1871)の廃藩置県の頃までの時代を指す。
3年生の秋頃だったと思うが、江戸時代、五畿内(摂津・河内・和泉・山城・大和の五ヵ国)やその周辺の国々(近国)では、幕領(江戸幕府の直轄地)やさまざまな領主(大名・旗本だけでなく、天皇家・公家や大寺社なども含む)の所領が入り組んでいたこと、かつて、そのような地域の支配の特質をめぐって近世史の学界で議論があったことを知った。この議論は畿内非領国論といわれるものであるが、畿内近国における支配のあり方は、薩摩藩島津氏が一円的に支配していた薩摩・大隅両国などの領国地域とは全く様相を異にしていたのである。私はそのことに非常に興味をもち、卒業論文では是非これをテーマにしたいと思った。
とはいえ、問題は分析の方法である。いろいろと迷った末、摂津・河内両国の河川支配を取り上げることにした。河川は、一応所領構成とは無関係に流れている。しかし、河川は上・中・下流全体として統一的に支配・管理されねばならない側面がある。とすれば、河川支配を手がかりに所領錯綜地域の支配の特質が見えてくるのではないか。このように予想を立てて卒論準備に取り組んだ。1976年のことである。1970年代、近世史の学界では国家論が盛んで、幕府や朝廷を近世国家という観点からとらえ直そうとした研究が相次いで出ており、大河川の支配を国家支配と結びつけて論じようとした試みもあった。そのような学界動向も、テーマ選択に影響していたと思う。
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